話題のあの本、きょう早朝にようやく読了しました。
もちろん、「A(実名)君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽」のことです。弊ブログにアクセス下さっている方ならぴんと来たと思いますが。この本が話題になってからというもの、アクセス数がふだんの何倍にもなってたもんなあ。

言わずもがな、を承知のうえで一応書き添えておくと、この本は山口県光市の母子殺害事件についてのルポルタージュである。著者の増田美智子さんについては、フクトミなどよりもネットのヘビーユーザーの方のほうが詳しいかもしれない。インターネット新聞JanJanで記者をしていた方だ。今春からは大学の職員で、この事件で殺人や強姦致死などの罪に問われ、広島高裁で死刑判決を受けて上告中の男性被告(28)とは奇しくも同学年になる。
で、本のタイトルだけでなく本文中でも被告を実名で記していることが明らかになって注目を集め、さらには被告(以下、弊ブログでのこれまでの表記にのっとり「少年」と記す)の弁護団が5日に出版差し止めを求めて広島地裁へ仮処分を申し立てたことから、ますます関心が高まることになった。
発売日は8日だったのだけれども、都内の書店では7日から店頭に並び始めたようだ。フクトミがいる大阪ではどうかというと、入荷は未定というところも多かったのだが、ふだんからひいきにしている書店で「お一人さま一部となっております」と念押しされながら7日に予約。8日午後に無事入手して、泊まりキャップ業務が終わった後のきょう9日午前4時ごろから読み始めた。読み終わるとすぐに夕刊キャップ業務に突入。で、夕刊編集作業が終わって一息ついてから、これをしたためている次第である。ノーベル平和賞の発表で中断したりしてますが。
さて、少年を実名で記すことにした理由を、増田さんはこう説明している。
「私が実名を書く理由は、匿名報道が彼の人格を理解することを妨げていると思うからだ。名前や顔写真が出ないことで、ひとりの人間とは違う、いわばモンスターのようなイメージがふくらみ、それが死刑を望む世論を形成しているのではないか」
だが、読み終えても、彼のことを実名で記す必然性はまったく見えてこなかった。
といっても、この本の内容のすべてを否定するつもりは毛頭ない。むしろ、よく取材してあることは事実だ。なんか上から目線っぽい書き方だな。そう受け取られてしまうと本意ではないのだが、とにかく惜しみない労力が取材に費やされていると思う。
広島拘置所での少年との面会は25回に及んだという。拘置所での面会取材が、いかに労を要するものであるか、フクトミも分かっているつもりだ。拘置所に足を運んだからといって、相手に会えるとは限らない。そして、会えたとしてもサシでの対面とはいかない。なにより、15分とか20分とかいう面会時間の制限(拘置所によって多少の幅がある)がうとましい。
そして、ざっと思いつく限りの関係者への取材を試みている。1審段階、2審段階、そして現在の弁護人はもちろん、少年の家族や同級生、恩師、そして少年が「犬がある日、可愛い犬と出会った」「ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよアケチくん」などと記した、あの手紙の相手の知人とか。被害者遺族である本村洋さんもだ。
ただ、こうした関係者取材に向けた努力の多くは、実を結んでいない。十分な取材ができた相手は、差し戻し控訴審の最終段階で弁護人を解任された今枝仁弁護士(今枝弁護士は本書の解説も執筆している)と、手紙の相手の知人ぐらいだろうか。
といっても事件が事件なだけに、関係者が、それが少年とより近しい関係であればあるほど、口が重くなるのも当然だろう。
ところで法廷取材のなにが楽かって、傍聴さえできてしまえば、後は関係者が目の前に現れてしゃべってくれるところである。もちろん、こちらに尋問権はないから、聞きたいことすべてが明らかになるわけではないけれども。
それでも、少年本人の肉声と先に挙げた2人へのインタビューというのは、十二分に魅力的な材料である。だが、書き上げられた本に重厚なノンフィクションのようなものを期待すると、肩透かしにあってしまう。
なんというか、取材過程をその素材のまま投げ出した感じである。投げ出した、という表現はよろしくないな。とにかく、取材を申し込んで断られて押し問答になったり、応じてもらって話を聞いたり、といった過程が、そのまんま記されているのだ。取材で得た材料を再構成し、情景描写や心理描写を織り込むといった形はとられていない。そういう意味で、「ノンフィクション」ではなく「ルポルタージュ」なのだと思う。
ま、言ってみれば、新聞紙上で連載企画をやるときに原稿を最終的にまとめるアンカーが、個別の取材をした記者から受け取る取材メモの体裁に近い。そんなこと言っても、われわれの業界外の人にはよく分からん話だろうけども。
ただ、それが必ずしも悪い方向へ働いているわけでもない。読者が最も読みたいものは、少年が語ったままの肉声であろう。それを伝えるうえでは、素材そのままというのは効果的といえば効果的だ。
対照的なのは、本村さんの側からこの事件を描いた門田隆将氏の「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」だ。フクトミ、この本も出版されてすぐに読んだのだが、そこに描かれている事実(そしてその事実に至るまでの取材)の圧倒的な重みに敬意は抱きながらも、筆者の本村さんに対する思い入れが強すぎて、事実そのものに曇がかかっているかのような読後感を持った。
それはさておき、話を「A(実名)君を殺して何になる」に戻すと。
光市事件について本を買ってまで情報を得たいと思っている人の多くは、少年が差し戻し控訴審で供述した内容は果たして真実なのかということを知りたいのではないかと思う。「殺すつもりはなかった」「遺体を姦淫したのは『復活の儀式』だった」といった一連のアレである。そのうえで、彼に極刑を言い渡すことが妥当なのかどうかを考えるのだと思う。
だが、そういった目的でこの本を読むのであれば、まったくの期待外れに終わるに違いない。25回にわたる面会で交わされた少年とのやりとりで、差し戻し控訴審での供述の真偽をただすようなものはない(少なくとも記述されていない)。
記述は、冒頭の引用で増田さん自らが記しているように「彼の人格を理解すること」のためのものに終始する。だから、多少なりともこの本によって、少年の人となりを知ることはできると思う。
ただ、それが少年を好意的に見る方向へと働くかどうかは、また別だ。
たとえば、少年から増田さんあてに初めて届いた手紙の「ぼくもみっちゃんのこと知りたいなー」という下りは、彼への嫌悪感をいっそう募らせる以外のなにものでもないと思う。なにしろこの手紙が書かれたのは、差し戻し控訴審判決からわずか2週間後のことなのだ。
ま、こうしたことも記述している点が、彼のありのままを伝えているということの担保になるのかもしれないが。
ただ、繰り返しになるが、彼の実名を出す必然性はまったく見えてこなかった。
確かに、たとえば「少年A」などと表現するよりも、実名で記したほうが記述にリアリティーをもたせることはできるだろう。ただそれは、楽ちんに、ということだ。
少年法の規定に全面的に賛同するかどうかは措くとしても、法は法である。なんか嫌なオトナみたいな言いぐさだが。その制限のなかで伝えるべきことを伝えるために、われわれはどうにかこうにか足掻くのだ。
実名を出さなければその人物の実像が伝えられない、というのでは、伝えるための努力を怠ったとのそしりを免れないだろう。
そして、このタイトルである。本文中で実名を記述するだけでなく、タイトルにまで実名を入れるというのはえげつない。事実を伝える努力はともかくとして、決して惜しむことはなかったであろう事実を取材するための努力をも、曇らせるものだと思う。
なんとしてでも訴えたいことがあった。大きな組織をバックにしているわけではない。名の通った大家でもない。そんな若いライターが世に広く伝えるためには、いかなる手段を使ってでも注目を集める必要があった-。
こんなタイトルをつけるなら、いっそこんな風に開き直ってもらったほうがよっぽどすっきりする。
もっといえば、この本のオビには、本村さんの言葉が記載されている。だが、この言葉、増田さんが申し込んだ取材を断る際の発言の一部なのだ。それをあたかも宣伝文句のようにオビに載せるのは、どうかと思う。
この本、果たして今後はどうなるのだろうか。
たとえば田中真紀子衆院議員の長女の私生活に関する週刊文春の記事をめぐり、発売前日に出版差し止めを求めた仮処分に対し、東京地裁はその日のうちに審尋を行って差し止めの結論を出している。
今回、広島地裁に仮処分が申し立てられたのは発売日の3日前の5日だった。しかし、すでに書いたように本は販売されているし、出版元のインシデンツのホームページには、きょう9日付ですでに在庫がなくなったことが告知されている。
出版差し止めを認めるなら早ければ早いほうがいいにもかかわらず、広島地裁の対応はいかにもゆっくりだ。第1回の審尋が行われるのは13日。ところが出版元側の準備が整わないため、この日は少年の弁護団側だけが意見を述べ、出版元側の意見は19日の第2回審尋で聞くのだという。
つまり、地裁の判断が示されるのは早くても19日ということだ。そのころには初版の4000部は売り切れていることだろう。
ま、弁護団も出版差し止め命令を発売日前に得ることよりも、仮処分申請によって出版元がとりあえず出荷を中止したり、書店が販売を自粛する効果を期待したのかもしれないが。
完徹明けの回らないアタマでつらつらと書き記してきたが、最後に。
本のタイトルにも明らかなように、増田さんは少年に死刑が執行されるべきではないと考えている。
だがそれは、彼の犯罪行為がどういったものであったのかを、差し戻し控訴審での審理がそうであったように、検討した結果ではない。死刑という刑の是非について思いをめぐらせたからでもない。
「単純に人情から」「実際に会ってしまった以上」、死んでほしくないと思っているのだという。


by brappi-oggy
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